ifの自分
もう一度ガラス細工をと願う気持ちがあって、何より胸にある想いの熱量がたまらなくて、しばし迷ったけれど伝えた事があります。
でも今度は自分の手の中から「ガラス細工にしたかったガラス棒」が床に落ち砕けてしまいました。
その事で何年も悲しみ苦しみました。
今日目覚めた時「あの時拒まれた事が辛かったけれど、その事を恐れて伝えなかったら後悔で辛かったろうと思う。どちらも後悔があったならば伝えて良かったと思うようにしたい」という気持ちが浮かびました。
しばらく黙って涙が流れるままでいて。
「そう、こういうことは初めてじゃない。子供を産んでいたら晩年の母の側に居ることができなかったかも知れない。子供を産まなかった選択は……ぼんやりとした寂しさや、申し訳なさなどあるよね。どちらが正しいとか良くないとかあ、考えるのは……」
人生の岐路を挟んで向かい側に居る「ifの自分」を気にしてしまうのは仕方ないと思います。
でも、病没した両親が生き返ることがないのと同様、選択をやり直すことは出来ません。
「ifの自分」を消してしまう事はできないと思いますし、今日のように「一区切り」のような思いを抱けるようになるまで時間がかなりかかると思います。そして一区切りできても、コトンと納得した訳ではないとも思うのです。
勿論、もしまたお会いする事が出来たらという想いはあります。忘れる事は出来ません。
幸せになりたいですから。
昔のように、色々振り回されて振り回して、嬉しくて辛くてという事になっても。
とはいえ今は、床に散ったガラス棒のカケラをとりあえず掃き集めて小さな箱に移し終わったという所です。
まとまりがない話ですが、一区切りのメモとして。