小料理屋さつきの天井裏

「小料理屋さつき」では扱わない小ネタとかmixiからの転載等。

国語に思うこと

 風呂に入ると色々な事を思いつきます。何故かは分かりませんが。
 
 昨日は「国語の授業も英語のリーダーとグラマーのように二つに分かれていた方がいいかな」と考えていました。
 「国文法=文法、筆記中心としたコマ」と「読解=文章を読んで感じたり考える事を中心としたコマ」とし、双方とも、漢文古文~現代文まで扱うようにすればどうだろうか、と。
 
 そう考えるようになったのは、40代になってやっと源氏物語の現代語訳を読む楽さを感じる事が出来るようになったからです。
 高校時代までは、受験という幹から伸びる枝の一つとして古文に触れたため、しかも「源氏物語」のようなボリュームのある作品の一部分を取り上げての事ばかりでしたから、登場人物や描かれた物語に思いをめぐらすことよりも、問題を正確に解くことが優先された感がありました。
 物語を楽しめなかったのが、古文から遠ざかってしまった原因のひとつかなと。
 大鏡などの鏡ものは歴史の知識も必要ですし、なおさらげんなりしてしまって。うたて、と。
 
 今、手元に残っているのは高校の現代文の教科書と古文のテキスト集ですね。受験も定期試験もなく、それなりに人生の山や谷を越してきた今開くそれらは、学生時代には見いだせなかった味わいがあります。

 なにより、つっかえながらも口に出して読む古文の美しさ。

 10代は感受性が高いという話がありますが、人生の艱難辛苦を超えた後の残ってる感受性もまたそれはそれで、若かった当時とは違う見方や味わい方があって。
 ただ、もう少し早く……まだ文章をこつこつ書いたりしていた30歳頃に、古文等味わう器が出来ていたら良かったのにとちょっぴり寂しく思います。
 受験という幹は無視できませんが、せめて、少しでも「清ら」な文章を書く事が出来、味わう地力を学生時代にそこそこ作っておきたかったなと。

 文法については、ビジネス文章だけでなく、お世話になった方々に出すお手紙に風情を添える事が出来たらとも。電話でのスムーズなやりとりや、客先で失礼の無いお話が出来る事とかも。勿論、SNS等で文章を書くときに読み手が不快にならないようするためには? というのも今の時代非常に大切なのではないでしょうか。
 
 とはいえ50歳を過ぎたから「今更……」というのは無いとも同時に思います。skypeやDiscordのようなものを利用した授業をもう一度受ける事ができたら素敵だなあって。
 以前、公文式の国語をやってみようかと思った事もありましたが、ちょこっと高いかな、と。放送大学は「授業感」を感じる事ができるのかわからなくて。
 ワガママですよね。でもちょっと、叶ったらうれしい夢だなって思うのです。