小料理屋さつきの天井裏

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耳を切り落としたゴッホの自画像

 1、ゴッホの自画像についてのあなたの感想および意見・感想を書.. - 人力検索はてな
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 という、ゴッホの自画像について感想を求めている質問があったので、コメントに書いてみました。コメント欄に書いたものに少し手を入れました。

 ゴッホの絵は、すごい値段がついている事というのが大嫌いで……特に、バブルの頃は投機対象のような扱いを感じたので、その部分でネガティブな印象はあります。しかし、こころの病気を患っていた事、自分が大好きなオランダの出身者であること(自分は今でも、跳ね橋のイラストや写真を見ると胸が懐かしさで一杯になります)、下でも触れている「耳を切り落とした自画像」のインパクトなどがあり、大嫌いではありません。むしろ、そっとしておいてあげてほしいというか、投機対象とかにしてあげないでほしいという気持ちです。

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 ゴッホの肖像画の中で一番記憶にあるのは耳を切り落とした後の自画像ですね。

 耳を切り落とした自分を絵として残す。
 周囲の人へのメッセージとして描いたというよりも、耳を切り落としたという極限まで追い詰められた精神のはけ口として描くしかなかった、そしてこのときの自分の気持ちの高ぶりを忘却してはいけないと描いた時点で思ったのではと自分は感じるのです。
 後日、この絵をゴッホはどういう気持ちで見たかは分かりません。描いた後二度と見なかったかもしれないし、時折見ては何か考えたかも知れません。耳に包帯を巻いている肖像画が複数あることから、多分、絵は見直さなくても、耳を切り落とした一件についてはゴッホは生涯心の中に生々しい記憶として抱えていたのではと感じます。伝記を読めば何かその点について記載があるのでしょうか……

 「耳切事件」の概略を読みましたが、やはり、ゴーギャンに伝えたいために描いたとは感じられないのです。確かに、カミソリを持ってゴーギャンを追いました。しかし、事実は、カミソリはゴーギャンに向けられず自身の耳に向けられ、切った耳は道に捨て置かずに娼婦に届けます。その「耳を捨て置かなかった」事すら、感情を吐いたとしても「過去」という箱に捨ててしまうことが出来ないゴッホの性(さが)が出ているのだと感じるのです。

 ゴッホの孤独。
 友達や家族とともにいても強い孤独を感じてしまう人だったのでしょうか。社交辞令や軽いお付き合いの中で交わされる軽い会話、知らない人からのほほえみから、友達や家族と囲む食卓や何気ない会話という親しい方との暖かな時間でさえも、ほんの少しのトゲを見つけてしまうと気になって気になって気になってしょうがなくなり、その後その方達とのつきあいを一切合切拒否する人だったのでしょうか。

 そういう拒否拒絶と悲しみを感じる一方で、人々との絆や自然の美しさへの憧れも心のなかに同居していたのかもしれません。
 
 自分は人間関係の構築、維持が困難です。人混みが苦手。うるさいのも大嫌い。地下鉄で隣に誰かが座っていると身体が震えるほどです。だけど、人と親しくしたい。人と楽しい時間を送りたい。そういう相反する気持ちがあります。

 自分の心の中で炎がゴウゴウと雄叫び、氷塊がうねる。相反するものが同居する。
 真反対な気持ちに挟まれてどうすれば分からず、翻弄される苦しみ。エヴァでリツコさんが言っていた「ハリネズミのジレンマ」かもしれません。

 こころの病気を持っている自分はよく「こころの病気はなってみないと分からない」と書いています。
 ゴッホも、自身の中にある巨大な炎と氷に翻弄される苦しみを伝える事が難しく、辛くて苦しかったのではと思うのです。
 
 ゴッホの絵は現在大きな評価を得ています。色々な方が色々な気持ちで見ていると思います。
 ただ、自分は、やはり、ゴッホが複雑な気持ちを抱きながら絵を描いていたのではと、悲しい気持ちになってしまうのです。

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07/13追記 この質問キャンセルになってしまいました。他の方のご意見も読んでみたかったのですが……残念です。