小料理屋さつきの天井裏

「小料理屋さつき」では扱わない小ネタとかmixiからの転載等。

愛について 2017_01

 自分の中で愛といえば、アガペーやエロス等がゆるっとなってる。
 
 例えば、小粋なホテルに泊まる。部屋には好みの女が無言で待ってる。
 自分が上着を脱いでクローゼットにしまうと、女もドレスを脱いで下着姿になってベッドに物憂げに横たわる。エアコンの音以外なにもしない空間でその姿は神々しい。
 こんな時、きっと自分は、実際には無いチンコをおったててアガペーとエロスが一緒になった愛を感じているのではないかと思う。
 
 草の根パソ通時代から、「愛は人それぞれ」「たまたま好きだった人が男だったとか女だったとか、その人だった」等々書いてきた。一昔前からは、それに「愛は泉のようにいつまでも沸き出る」とかも加わった。
 
 自分は、ぐーたらアバンギャルドまったり仏教徒とか思ってる。檀家さんになってお世話になってるお寺がない、野良である。
 だから、自分の信仰心が清らかなものかどうかよくわからない。
 アガペーかエロスかと尋ねられたら、エロス方向へ傾いてると思う。多分。
 
 弁財天さまかと思うほど、やわらかで、優しい観音様が自分はとても好きだ。自分の心の中では、観音様は女性の性を持っていて、限りない慈愛で生命を包んで下さっている。馬頭観音さまは別で、炎でよくない怒りや恨みを燃やし、けれども、別の炎で道を照らして下さる。
 そんな風に自由に考え、自由に愛し、自由に祈ってる。昔は、カチコチ頭で色々やらなきゃとか思っていたけれど、今は「写経はやらなきゃな……いつか、多分」と思う程度で、のんびりしている。観音さまなどのお写真を飾っているけれど、大抵は布団の中で色々想い、泣きながら祈ることが多い。
 
 一人になって数年経ち、寂しい想いがある。またいつか恋をしたいなと思う反面、仏教へのスタンスと同じで、出会えたらラッキー位に思うかなというのもある。

 エロスがもたらすのは、ガソリンの引火のように爆発的なもので、関係が消えると思い出と苦みだけ残る。でも、アガペーは小さな蝋燭の炎のようで、手でかこっておかないと頼りない程だけれど、ゆるゆると、長いと思う。
 どちらだけでもだめで、アガペーとエロス、それに、家族や親友、尊敬する方への愛が様々な人や物の間と循環して人はフゥと落ち着けるんじゃないかなと思う。

 そう、人だけじゃない。
 玩物喪志って単語があるけれど、それほどまでに人はモノにおぼれてしまう時があると思ってる。車好きの男の女房だった時、痛いほど感じた。30半ばだったかな。「車好きの男は、車を運転している時、車とセックスしてるんじゃないかと感じる」とか書いていた。
 自分は運転が下手で、かつ、想像力豊かな恐がりなもんだから、峠道で旦那が遊んでると恐怖でしかなく、降りたい降りたいと泣いたことは何度もある。
 けど、離婚したのは車のせいじゃなく、互いの病気のせい。……まあ、それ以外にこの事もあったかも知れないけれど。自分も色々あったし。

 さておき、兎に角、あっこちゃんの歌じゃないけれど、愛がなくっちゃ、と。
 下半身に反応をおこしたり、胸をギュッとしたり、涙したり、様々に。
 50を過ぎても、その先70、80を過ぎても愛を循環させていきたい。